人生
枠をひとつずつ外していく
「こうしたほうがいい」「こうしたほうがうまくいく」が、「こうしたい」より先に出てきます。いまでもそうです。長いあいだ、これが自分の課題です。
出どころははっきりしています。両親が牧師で、父方の祖父母も牧師で、家が教会でした。信仰は出会ったものではなく、生まれたときからそこにあったものです。そういう場所に長くいると、立ち回りが上手くなります。両親の顔に泥を塗らないように、いいクリスチャンでいようとする。誰にも頼まれていないのに。学校でも同じで、弱みを見せたら飲み込まれる気がして、自分を大きく見せていました。
どちらも、弱さを見せないための動きでした。そうやって自分で枠を作って、その中に自分を閉じ込めていたのだと思います。
大学4年のとき、イスラエルに行きました。キリストが生まれたとされる場所に長い列ができていて、並んでいる人たちが、俺のほうが先だ、いま抜かしただろう、と言い争っていました。それを見て、しょうもないな、と思いました。同時に、これも枠なんだな、とも思いました。宗教は人間が作ってしまった枠組みで、自分が信じているのはキリストであって、キリスト教ではない。
外側の枠が見えたとき、自分が自分にはめていた枠のほうも一緒に見えました。そこから考えていたのは、人の至らなさのことです。それでもなお注がれているものがあるのだとしたら、この至らなさごと受け取られているということになる。だとしたら、隠さなくていい。自分の弱さをもう少し愛せるようになりたいと思いました。凝り固まっていたものが、ほろっと崩れた感じがありました。
あとになってカントを読み直したとき、自分がやっていたことに名前がつきました。カントは、欲望や感情のままに生きるのは自由ではなく、感情の奴隷なのだと言います。自立とは、道徳法則を自ら作り、自由意志を持ってそれに従えること。
つまり、外にあるものに従っているかぎり自由ではない。それが欲望でも、周りの目でも同じです。「こうしたほうがいい」で動いているとき、自分は選んでいません。従っている相手が変わっただけで、不自由の形は同じでした。
いまも先に出ます。ただ、出たことには気づけるようになりました。気づいてから、選び直す。自由と呼べるのは、たぶんいまのところそのぶんだけです。
