marocreate
← Thought

教育

見られている、と思えるかどうか

小学3年のとき、仲の良かった友達からいじめを受けました。学校に行くのがつらくて、自分の居場所が揺らぐ感じを覚えています。4年生で担任が替わりました。ユーモアがあって、そのぶん厳しくて、ひとりひとりにちゃんと向き合う先生でした。それだけでクラスの空気が変わりました。同じ教室で、同じ子どもたちなのに。

変わったのは自分ではなく、まわりにいた大人のほうでした。いま思えば、あの先生がやっていたのは、ひとりひとりを見ることだったのだと思います。

日曜に教会へ行くと、子どもたちと過ごす時間が長くなります。そこで毎回思うのは、その子に「見ているよ」とどれだけ感じてもらえるか、なんだろうなということです。

子どもが大きい音を出したり、騒いだり、物を投げたりするのは、だいたい何かのサインです。自分のことを見てほしい、というところから来ている。だからただじっと見つめてあげるだけで意外と安心するし、見てくれているということが信頼に変わる。そうすると話も聞こうと思ってくれます。

向き合うときに自分が決めていることが二つあります。ひとつは、約束を破らないこと。子どもは約束を破られることに絶望を味わう生き物だと思っています。大人もそうかもしれませんが。だから必要なら約束をするし、したものは絶対に破らない。

もうひとつは、子ども扱いをしないことです。一人の人間として、1対1で話す。子ども言葉はできるだけ使わないし、おかしいと思ったら子ども相手でも「それは変じゃない?」と言うし、面白ければ「それめっちゃ面白いね」と言う。「どうせできないよね」ではなく「ちょっとやってみてよ」と言う。

河合隼雄さんの「見守る」という考えを信じています。育児の基本は見守ることで、どれだけ見守れるかにかかっている、という。ただ見守るのはけっこう苦しい選択で、泣いていたら助けに行きたくなる。そこで一度立ち止まって観察してみる。手を出すより、見ているほうが難しい。

なので、教えることには自分はあまり興味がありません。関心があるのは、その子が誰かに見られている状態をどう作るか、のほうです。

いま教育の会社で、エンジニアリング側から学校を支える仕事をしています。学校はかなり閉じたコミュニティで、外部が入るハードルが高い。そのうえ先生たちは制度に振り回されていて、タスクが積み上がっている。忙しすぎる人は、ひとりひとりを見ることができません。

教育を学校だけに背負わせている構造そのものが、あの4年生の先生のような時間を奪っているのだと思います。自分がやっているのは、その手前を減らす仕事です。